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300年続いているって本当?おまつりの起源と歴史

1744年ごろから石岡のおまつりはスタートし約270〜300年の歴史があると言われております。それでは、どのような歴史を辿ってきたのでしょうか?

近世府中のお祭

現在の石岡のおまつりの起源に焦点を当てる前に、近世、つまり江戸時代の府中のお祭りの歴史をたどりましょう。なお、ここで説明する「府中」とは現在の石岡のことを指します。

そもそもですが、近世前期に石岡のおまつりが開催される「常陸國總社宮(ひたちのくにそうしゃぐう)」はそれまでの神仏習合の両部神道から唯一神道へと変化します。

つまり、現在のように「神社」として確立されたのは江戸時代前期だったのです。また、時が流れて近世中期に差し掛かると、かつての国府域つまり、府中から多くの村々が独立し、現在の「石岡」のまちは 「府中平村」あるいは 「府中宿」と呼ばれるようになりました。この「府中平村」について補足をすると、慶長2年(1597)に町立てが行われました。

それまでは長峯寺(若松町)が中心で、 村上へ向う道では尼寺ヶ原から木間塚、 杉並から山王台、大橋境まで町があり、下千石(山王川下流地域)では兵崎から北根本の台まで人が住んでいました。

また、府中を通過する本街道でも、三村から中津川(恋瀬川) 舟渡りで田島、貝地・山王台・大橋を経て竹原にいた るルートだったものが、慶長年間の府中町立て以降、市川から、土器屋(幸町)・馬地 (冨田町)・金丸を経て山王台・大橋竹原にいたるルートとなり、さらに寛永正保年間(1624~48)までに土器屋・新宿(泉町)・杉並・行里川を経て竹原にいたる現在の道筋(旧六号道)が完成しました。

この17世紀中頃には、出し山・行里川・根当・田崎・半ノ木・正上内・谷向・大谷津・兵﨑などの新田集落も成立し、18世紀前半には、長峰寺が若松町に、新宿が泉町に、土器屋が幸町に、馬之地が冨田町に、馬之地上が守横町にそれぞれ名称を変更し、13町9新田等から構成される府中平村が成立しました。

こうして新しく成立した府中平村ですが、香丸組、 中町組、守木組、冨田組の4組に分けられていました。

各くみごとに庄屋が任命され、年貢徴収や各種の行政事務を処理していて、その上位にあって府中の総名主役であったのが中町の矢口家でした。この矢口家のあった中町を中心に他の3町がありました。

この地域では様々な祭礼行事が行われていたが、その中心的役割を果したのも、府中総町名主であった、中町の矢口家でした。なお、中町をはじめ香丸、守木、冨田は今もなお石岡市内の町として残っています。

こうして行われていた諸祭礼行事のなかで最も盛んに行われたのは、 府中平村の「村中の氏神」天王(八坂神社)の祭りでした。このお祭りは祇園祭礼でありました。

さて、こうして府中から府中平村へと変わった現在の石岡のまちですが、旧府中域の総鎮守としての常陸國總社宮の地位は変わることなく、大きな求心力を保っていました。

こうした歴史を持つ常陸國總社宮ですが、そのお祭り「常陸國總社宮例大祭」の起源は大きく分けて2つ「総社宮のお祭り」と先ほど説明したように「祇園と愛宕のお祭り」の側面があると言われています。

ここからは、「総社宮のお祭り」と「祇園と愛宕のお祭り」それぞれのどのような特徴があり、どのような起源を持っているのか、具体的に見ていきましょう。

総社宮のお祭り

常陸國總社宮はその土地全体を安からに保つ役割を持つ総鎮守總社宮でした。そのため、この地域の村々では各村に神社を構えながらも、常陸國總社宮の9月9日の祭礼には、唯一の催し物である「奉納相撲」に人が集まったのです。

この相撲には、各村の代表選手を送りそれぞれその相撲の試合に熱狂する大きな催し事でした。ちなみに、近世の常陸國總社宮の祭礼には、 現在のような神輿や獅子舞、山車などはなく、奉納相撲のみが唯一の催し物であり、この地域最大の神事(じんじ)とされていました。

この奉納相撲の起源は、江戸時代以前のことは文献に残っていませんが、延享(えんきょう)、つまり1750年頃には確認されていました。

始まりとしては、祭神・建御名方命(タケミナカタ)と力くらべをしたことに由来し、神事としては、子どもがするものでしたが、時代が進むにつれて徐々に大人の取り組むものとされるようになりました。

なお、明治に入った1873年、同じく茨城県にある鹿島神宮の相撲祭が旧暦9月9日が新暦の10月29日に当ることから、同日に行われることになったのですが、

そのような事実から、鹿島神宮の相撲祭こそが、常陸國總社宮の奉納相撲の起源とも考えられており、またそれが現在の「常陸國總社宮例大祭」つまり、「石岡のおまつり」の起源なのではと考えられています。

こうして始まったと考えられる奉納相撲は、明治時代に、現在の常陸國總社宮例大祭の形が成立して以降も、中心的な催し物となりました。

昭和の戦時体制下、この後説明する山車などの風流物や余興などが自粛された際も、この奉納相撲だけは引き続き行われていました。

常陸國總社宮例大祭における相撲は、信仰を共に共有する人々にとって、その崇敬心の表現であり、また神事の中心をなすものでもあったのです。昭和の戦時体制下であっても奉納相撲の対し町民が参加する様子は、新聞でこのように報じられました。

「総社神社祭礼 石岡町では八日から三日間恒例により同町県社総社神社の祭礼を執行するが、 時局柄一切の催し物を取止めて自粛自戒し体位向上の折新治郡下青年団の奉納相撲リーグ戦を挙行する。」 (昭和14年9月7日 「いはらき」)

この奉納相撲は、「奉納相撲」として継承されながらもその形を変えてきました。

かつては神事としての相撲から、 総鎮守總社宮への現在の石岡の地域である府中の村々の奉納相撲、 そして明治・ 大正時代から昭和時代にかけては本職の相撲取りを招請しての相撲興行、 そして現在の県内高校相撲選手権大会と、相撲をする担い手は時代により変化がありましたが、 常陸國總社宮例大祭における奉納相撲は、文献で確認できるだけでも270年以上の歴史がある、伝統ある行事として現在も継承されています。

祇園と愛宕のお祭り

常陸國總社宮の現在のお祭り「石岡のおまつり」は、 江戸時代においては「天王社の祇園まつりであった」ということが確認されています。

参考: 『石岡市 史下巻』

近世、府中の地域で行われていた祭礼行事のなかで最も盛んだったのは、 府中平村の 「村中の氏神」である天王(八坂神社)の祭りでした。それが祇園祭礼であり、常陸國總社宮例大祭の神輿の仮殿への移動、各種の風流物の原型が残っているのです。

そもそも、民俗学者・柳田國男によれば、マツリという語は、本来、神に饌物をさしあげること、 そうして神意を聞いて従うという意味です。

それが、いつの間にか「華やかな練り行列が出る祭礼型の祭り」がより一般的なものだと据えられるようになったのは、疫神観が普及したこと、そして御霊信仰の高まったことが要因だと考えられています。

つまり、世の中に祟りを起こす祟り神を慰め、癒すことで、世の中に起こる悪い出来事を避けようと考えたのです。そして、祟り神を慰める方法として、神饌物(しんせんぶつ)を供えて、飾り物をし、そして音楽で囃し立てた行列をなす 「風流」が定着していったのです。

この風流物や神輿の起源は京都の夏の「祇園祭り」とされており、それが全国に普及し、一年中の祭礼の主要な形、現在の祭りの目玉となっていったとされています。

常陸総社宮例祭、つまり現在に続く「石岡のおまつり」の原型が祇園祭りにあるということは柳田國男も論理的に納得のいくものだとしています。

『日本の祭』の中にこのような記載があります。

一般的なる祭礼の特色は、 神輿の渡御、 これにともなういろいろの美しい行列であっ た。

中古以来、 京都などではこの行列を風流と呼んで居た。風流は即ち思いつきということで、 新しい意匠を競い、年々目先をかえていくのが本意であった。

我々のマツリはこれあるために、サイレイになったといえるのである。

・・・神様を祭場にお迎え申す方式にも乗り物を用いた例は早くからあった。

神馬がもう一つ前であり、 中世の歴史に有名な日吉の神輿はその一つ、春日の神木というのも手輿に乗せ申してかついで出た。ただ現在普通になって居るような飾り神輿に至っては、 本来はただ定まったある神社だけのものであった。

京の祇園が最初であったように、 我々の間では想像して居る。

怖るべき神々、 特にその神の御怒りをなだめ奉るべき御祭のみが、もとこういうふうにできるだけ美々しい支度をしたのではないかと思って居る。

すなわち少な くとも諸国の多くの御社の神の御渡りにも、この綺麗な御輿を用い始めたのは流行であり改造であり、近世の平和期以後の文化であり、従ってまた主として都会地にまず入ったもののようである。工芸史の方面から見ても、この事はかなりはっきりと説明し得られる。

つまり日本の新たなる文化は、第一次に広範囲に、この方面に適用せられたのである。ここには頗る複雑な社会心理が働いて居ることと思うが、とにかくこれによって、多くの城下町や湊町に、一つの立脚地または一つの力と頼むものができたのだが、 そのかわりには 「日本の祭」は、よほど昔の世とは変ったものになった。

これがまた所謂祭礼を、他の種類の様々の祭と対立させて、考えてみなければならぬ理由である。

盛んだった府中平村の祇園祭礼は、府中平村4組のうち中町・守木・ 香丸の3組の年番交替によって運営されていました。それが現在の「石岡のおまつり」の目玉とも言える、神輿や山車などの風流の形をつくったのですが、その風流については後ほど詳しく説明します。

また、祇園祭礼のみならず、愛宕祭礼も「石岡のおまつり」を形作ったと言います。

愛宕の祭礼には例えば、「ささら」や「俵付馬」、「子供おどり」のような風流物が出ていました。

近世府中の祇園祭礼や愛宕祭礼の風流物は、 「屋台踊」 「子供踊」 「田打踊」 「ほうさい念仏踊」 など踊りを主体としたものが多かったが、「富田のササラ」 や「土橋の大獅子」 など、後に常陸国總社宮例大祭の中で大切な役割を果す風流物も登場していていました。

特に「富田のササラ」は祇園祭礼において、重要な役割を担っていたと言えます。

御仮屋から神輿が出発する時、酒を一升の振舞いを受ける習わしがあり、 祇園祭礼、そして愛宕祭礼ともに、神輿の先に出て行列の先頭をきる露払いをするものとして位置づけられていました。

さらに明治以降の例大祭においては、後ほどにも説明する「七度半の迎え」という伝承が生まれるほど格式を保つようになりました。

このような風流物は、長い歴史を誇る伝統あるものだと言えるでしょう。

ですが、常陸国總社宮例大祭の成立とともに、風流物がこの例大祭に移行していき、こうした祇園と愛宕祭礼は徐々にその規模を縮小化していきました。

ですが、それでも例大祭が成立した後の、明治期には例大祭と並行して賑やかに祭礼が行われていたと言います。

現在の「石岡のおまつり」に繋がる常陸国總社宮例大祭がどのように確立されていったのでしょうか?具体的に見ていきましょう。

常陸国總社宮例大祭の確立

これまでに説明したように、常陸国總社宮例大祭は「総社宮のお祭り」と「祇園と愛宕のお祭り」に起源があると言えます。

それでは、どのようにして現在の常陸国總社宮例大祭、つまり石岡のおまつりの形がなされたのでしょうか?

常陸国總社宮例大祭が確立された背景として、明治維新後の国全体の神社の編成替えが大きく影響しています。

明治維新後に成立した新政府は、神仏分離を強行し神道の国教化を進めました。

その当時、全国には約19万の神社があり、さまざまな祭礼がありましたが、新政府は天皇の祖神を祀る伊勢神宮を頂点とする神社の編成替を行い社格を定めました。

全国の神社は「官社」と「諸社」に分けられました。

官社は官幣社、国幣社別、格官幣社、 そしてまた諸社は府県社・郷社・村社・無格社に編成され、それぞれ独立した神社として政府の管理下におかれることとなりました。

このような明治新政府による神社の再編成と統制は、従来旧府中域の総鎮守であった常陸国總社宮の立場に大きく変化をもたらすこととなりました。

旧府中域の村々の鎮守はその多くが村社となり、独立した地位を獲得し、各村民の信仰を集中させることができました。

例えば、高浜の高浜神社と三村下郷の鹿島神社は明治6年(1873)に、村社に昇格していています。

このような状況のなかで常陸国總社宮は郷社に位置付けられ、その後 明治33年(1900)に県社に昇格したものの、府中平村の氏神であった八坂神社が無格社であったため、後の石岡となる府中町の鎮守としての存在を強めていきました。

このようにして、石岡のおまつりの中心となる常陸国總社宮は、常陸国の総鎮守でしたが、旧府中地域の総鎮守を経たのち、近代に至ってから、旧府中地域の中でも石岡の鎮守に限定されていきました。

また、このような神社編成の他に、石岡が商業都市として発展したことも、常陸国總社宮例大祭が確立された背景として説明を欠かすことができない要素です。

明治前期の石岡町は商業都市として、 それ以前の時期とは比較にならないくらい繁栄をしていました。

特に、明治20年(1890年頃)代以降は、常磐線の開通などもありさらに商業が発展していくことになります。

米雑穀・肥料商や酒醤油醸造業などによって蓄積された資本を元に、製糸業や倉庫業、銀行業などの近代企業が作られ、明治40年(1910年)以降になると電気供給事業や鉄道業などの公共的な産業も出始めるようになりました。

こうした商業の担い手は旧府中町の商人層であり、石岡町の発展とともに成長し、町の財政を豊にし、そして町内のさまざまな団体においても指導をする役割も担っていくようになりました。

その中でも特に中心となったのは、近世の祇園愛宕祭礼であれば、中町に住む矢口家を中心とする町役人層であり、明治以降であれば酒醤油醸造家や米穀商などの商人層が町の主導権を持つようになりました。

このように、石岡町の中心人物は商人層であったことから、常陸国總社宮例大祭がその特徴を持ち確立し、また、近世の祇園・愛宕の祭礼とは比べられないほどの大きな規模で例大祭を開催するようになったのです。

こうして、常陸国總社宮としての立場が変わったり、経済が発展していったりするなどのさまざまな変化がありつつも、新しい要素を含みながら常陸国總社宮例大祭を確立していくこととなります。

それではここからは、常陸国總社宮例大祭を説明するのに欠かすことができない、「年番制度」「風流の継承」「山車の登場」「獅子風流の再現」について説明します。

年番制度

石岡のおまつりには「年番制度」があります。

この制度は、石岡市内にある36町のうち15町が1年交代で、大神輿を迎え入れる御仮殿(おかりや)を設けるなど、おまつりでの中心的な役割を果たす制度のことです。

そして、その役割を担う町を年番町と呼びます。

明治20年(1887)以降、香丸・中町・守木・冨田の旧府中4組が祭礼年番を勤めてきましたが、明治35年(1902)に確立された新年番制度によって、石岡町内の商工業地域16町が毎年交替で年番となり祭礼を行うこととなりました。

なお、16町は以下の通りです。

守木町、大小路町、土橋町、金丸町、守横町、富田町、仲之内町、宮下町、青木町、幸町、國分町、中町、若松町、泉町、香丸町、木之地町

※木之地町は昭和27年(1952)に辞退しているため、現在は15町

年番制度を設定したことで、石岡の農業集落を含めた全体が「信仰をともにする人々」として認識していたところが、16町のみに限定されたことで、「おまつりを外から眺めるだけのもの」となってしまったと批判的に見る観点もあります。

ですが、このように年番制度を設定したことで、それまでの鎮守祭とは異なる現在に続く常陸國總社宮例大祭の原型ができたのです。

具体的に年番町の役割にはどのようなものがあるのでしょうか?

先ほど説明した、神輿を迎え入れるための御仮殿(おかりや)を設けます。

御仮殿(おかりや)とは、おまつり1日目に常陸國總社宮から神輿を迎え入れ、3日目に大神輿が常陸國總社宮に戻るまでの間、’神様の分身’が滞在する場所’としての役割を果たします。

年番町の役割は御仮殿を設けるのみではありません。

年番町は前年番町から引き継いだ日から、翌年のおまつり最終日に次の年番町に引き継ぐまでの1年間、常陸國總社宮へ奉仕活動を行うという役割も持っています。

こうしておまつりの1年前から重要な役割を担う年番町は、おまつりの主役そのものと言っても過言ではないでしょう。

また、年番町の町民にとってはその年のおまつりは格別なものです。

町の山車を改修したり、半纏(はんてん)を変更したりするなど、より一層力を入れて、準備するのです。

なお、この年番町には順番が決まっており、15年に1度、各町はその役割を担うこととなります。

また、この年番町の引き継ぎは、石岡のおまつり最終日の夜に行われますが、引き継ぎが行われる場所は毎年変わるので、行く前に情報を得ることをおすすめします。

風流の継承

そもそも祭りにおける風流とは、見せるための作り物や飾り物などを意味し、具体的には神輿や獅子などのことを言います。

年番町に設置された御仮殿(おかりや)へ祭神が渡るに際して、その乗り物としての神輿がつくられ、神輿に供奉する行列も合わせてつくられました。

神輿がつくられたのは、「新年番制度」がつくられる前の明治30年(1897)、元々の年番制度が適用されていたときに、中町が年番の年に青木町の制作者・小井戸彦五郎によってつくられました。

ちなみにこの神輿は、神輿の台座のような役割をする「台輪(だいりん)」の横の長さは4尺(151cm程度)で、またその重さは1トンを超えているため、その大きさにも注目が集まっています。

ですが何より、日本国内でも珍しく屋根紋は、天皇家や皇室を表す紋章「十六葉八重表菊(じゅうろくやえおもてぎく)」であることで知られています。

この紋章がある神輿を所有する神社は全国で3社のみと言われています。

さて、この神輿のように、現在の石岡が府中だった頃から府中町の祭礼にあった風流物が徐々に登場し継承され、それが常陸國總社宮例大祭の大きな特徴の一つとなりました。

そのうちの代表とも言うことができるのが「冨田のささら」です。

かつての祇園・愛宕(あたご)祭礼の神幸行列で先頭を切った「冨田のささら」は新たな祭礼、つまり常陸國總社宮例大祭おいても同じ役割を担うこととなりました。

「ささら」は三匹の獅子舞のことで、 茨城県内には県北から県央県西にかけて数多くの 「ささら」が伝承されています。

そのうちの浅川のささら、日立のささら、大串のささらばやしが、 冨田のささらとともに県指定無形民俗文化財となっています。

そもそもですが、「ささら」とは何を意味するのでしょうか?

本来「簓(ささら)」は楽器の名前でした。

ささらの親、つまり竹にのこぎ り状の刻み目をつけたものに、ささらの子、つまり竹竿を細かく割いたものをすりあわせ音 を出すものでした。

お祭りで見られるものは、3人1組からなる三匹獅子舞で、お腹に当たる部分にくくりつけた太鼓や篠笛と合わせて舞の伴奏にも使われました。

「冨田のささら」はこの三匹獅子舞のなかで、 水戸市周辺から石岡市にかけて伝承されている通称「棒ささら」と呼ばれる独特なささらの一つです。

竹棒の先に獅子頭がのせられ、胴部に衣裳と手を前に羯鼓(かっこ)と呼ばれる打楽器を着け、囃子(はやし)に合わせて竹棒を振るようにして演じられます。

現在、ひたちなか市や水戸市) などにも伝承されています。

そんな「冨田のささら」はおまつりでどのような役割を果たすのでしょうか?

ささらは、おまつり1日目に常陸國總社宮から御仮殿(おかりや)へ神輿が向かうときに、そして3日目に御仮殿から常陸國總社宮へ神輿が戻るときに、行列の先頭を歩く露払いを務めます。

石岡のおまつりのささらは全部で3匹、「老獅子(ろうしし)」と「若獅子(わかじし)」、そして「女獅子(おんなじし)」と呼ばれています。

「老獅子」の舌の裏側に「中」の文字が、「女獅子」の舌の裏側に 「女」の文字が、そして「若獅子」の下の裏側には特に文字は書かれていません。

三匹の獅子頭は桐材で作られており、全体に黒い漆で塗られ、 目と歯には金箔が施されています。

ささらの頭は、狛犬や鹿、猪、龍などを型どったもので、 狛犬型が 多く見られるが、 冨田のささらは龍頭のような形をしています。

他の地域のものと比較すると鼻が大きく、また、「老獅子」の角には鎬(しのぎ)が刻まれ、「若獅子」の太い長い角には金箔が塗られています。なお、「女獅子」には角はありません。

この角も他の地域のものと比較して、長く立派です。

このささらが作られたのは、特に文献に残っていませんが、ささらの屋台前の角にある擬宝珠(ぎぼうしゅ)に「嘉永(かえい)二歳西六月日冨田町」と刻印されているため、1849年に作られた、ということになります。

顔全体は黒い漆(うるし)で塗られ、女獅子以外は2本の角があります。

目や歯などに金箔が施されていることも特徴です。

お囃子に合わせて舞を踊ることもあり、その見た目の独特さなどから、非日常を感じることのできる空気感を醸し出します。

石岡のおまつりでは、富田町、土橋町、仲之内町の3町が獅子を出します。

「冨田のささら」は、七度半の迎えを受けて出るといいます。

この七度半の迎えとは、天狗の使者が神社などの舞庭と獅子宿の間を行きつ戻りつする儀式で、かつてこのような儀式が冨田にあったと考えられています。

このような背景があるため、現在でも年番町は最初にささらの元へ挨拶に行き、神輿の行進の銭湯を歩く「露祓い」をお願いする、という習わしが今でも残っています。

山車の登場

先ほどの「ささら」と同様に、山車も現在の石岡のおまつりを彩る目玉と言えます。

2日には山車と獅子それぞれの大行列が行われるのですが、その数、山車12台・獅子32台(平成30年時点)と計44の風流を見物することができます。

こうした風流物としての山車の登場は、明治29年(1896)につくられた中町の江戸型山車をはじめとしています。

この山車にのせられたのは、 三代目原舟月作の 「日本武尊」 を模した山車人形でした。

そもそも、一般的な山車とはどのようなものをさすのでしょうか?山車は京都の祇園祭りにおいて成立し、発展しました。そこから、やがて全国さまざまな地方都市に伝わり、その地方の文化や産業などを背景にして、それぞれ個性豊かな山車が登場してきました。

なお、山車はその形や特徴、また呼び方もさまざまあります。

例えば、西日本では山笠や笠鉾(かさほこ)、ダンジリなど、 東日本では山車(だし)や屋台などと呼ぶことが多いです。

石岡のおまつりを彩る「山車」は、そのという場合はその鉾(ほこ)が突き出ているため、その様子が「出し」の状態であるという意味です。

山車は、特に夏祭りの神幸祭になくてはならない存在で、祭礼のシンボルと言っても過言ではないでしょう。

もちろん、神幸祭の主役は神社神輿ですが、脇役の山車が目立ち、現在では祭りのシンボルとも言える存在となったのです。

石岡のおまつりでは、明治35年(1902) の新年番制度がはじまってから、各町では競うようにして山車をつくり、現在の獅子と同じようにお祭りの目玉となっていきました。それでは、石岡のおまつりはどのような特徴があるのでしょうか?

石岡のおまつりの各町の山車は大きく迫力があり、豪華であることで有名です。特徴として、山車は2〜3層で、屋根はありません。屋根の代わりに一番上にあるのは、各町独自の2mほどの高さの人形です。

人形が大きいため、山車が練り歩く際は「人形守り(にんぎょうもり)」と呼ばれる数名の人たちがこの人形の側につき、人形が障害物にぶつからないよう守ります。

ちなみに、山車の一番上にある人形の中には、聖徳太子(しょうとくたいし)や菅原道真(すがわらのみちざね)、神武天皇(じんむてんのう)など、日本の歴史に名を残した人たちの人形があります。

その中でも石岡のおまつりを代表すると言っても過言ではないのが、「日本武尊(やまとたけるのみこと)」の人形です。

石岡市の有形民俗文化財にも指定されているこの人形の力強さに圧倒されること間違いありません。山車の人形は各町独自のものです。山車を見るときは、人形に注目するのも楽しみ方の一つと言えるでしょう。

山車の1層目には台座が回転する仕組みの「舞台」となっています。この舞台で太鼓・笛・鉦(かね)を用いて石岡囃子(いしおかばやし)が演奏され、面と衣装を着た踊り手が囃子に合わせて踊ります。

なお、この山車に乗るのはなんと15名程度です。この囃子は、「葛西囃子(かさいばやし)」に影響を受けています。

近世後期の霞ヶ浦水運の発展にともなって、江戸との間での人の交流や経済交流があった中で、恋瀬川(こいせがわ)流域の農村に伝えられた江戸の葛西囃子の一種なのです。

葛西囃子は、 江戸祭礼囃子の元となったといわれるもので、享保年間 (1716~36)のはじめ頃に、江戸葛飾領三十郷の総鎮守であった葛西郡香取明神の神主・能勢環(のせたまき)がその形を作り、広めていったものだとされています。

石岡囃子は、ストーリーが決まっておらず、自由に踊られます。曲はおかめやひょっとこ、きつねのものがあり、大太鼓と小太鼓、鉦(かね)、笛によって演奏され、その演奏に合わせて仮面を付けた踊り手が踊り盛り上げます。

このように山車が注目されている、現在の「石岡のおまつり」について、こうした信仰や伝統に重きが置かれていないと言われているのも事実です。

時代が移り変わるにつれて、県内外からの観光客を集めるための’カーニバル’のような要素が強まっていると言われています。

しかし観光行事としての側面 は、この祭礼の創設当初から見られた大きな特徴の一つでもあり、こうした風流が多く出るのも兼ねてからの「石岡のおまつり」の特徴と言っても過言ではないでしょう。

さて、この石岡囃子で盛り上がるこの山車が練り歩く様子を石岡の駅前通りで見られるのは、おまつり2日目土曜日の夜の時間帯なので、見逃すことができません。

獅子風流の再現

先ほども説明した山車と同様に、石岡のおまつりを担う祭礼風流としての獅子は、「ジャラモコジャン」の異名でも広がり、おまつりのシンボルのような存在となっています。

獅子舞は、日本全国で見られるものですが、その形態や動きは多岐にわたり、日本で最も数が多い民俗芸能といわれています。

石岡の獅子は、 道路に充満するさまざまな妖怪を意味する魑魅魍魎(ちみもうりょう)を驚かせるため歩行し家の悪魔を払う「行道獅子」の一種で、また幌のなかの胴部に屋台を納め、 そこに囃子を受け持つ人をいれて行道する 「屋台獅子」の形態をとります。

なお、その屋根は棟木(むなぎ)や桁(けた)という木材に小麦藁(こむぎわら)を巻き、 竹を割って弓の用に差込むという方法をとります。

なお、その屋台は幅2m・奥行5m・高さ 2.6mぐらいの大きさが標準です。獅子舞の前方には大太鼓、後方に小太鼓が2、3個取り付けられています。

この屋台には木綿の幌が掛けられており、その色は通常2色で紺色を主にに使い茶や緑などと組合わせたり、また単色に獣毛を合わせたり、獣毛に町名の紋様を入れたりするので、幌を見るだけでも町名が分かるような仕様でした。

小屋の周囲には注連縄(しめなわ)が張られ、正面上部に提灯を取り付ける木枠を作り町名の書かれた提灯が付けられています。一時的に、この部分に造花が飾りつけられたこともありましたが、昔からの伝統ではなく、現在ではほとんどそのようなものは見られません。

この獅子の動きですが、覆いのような幌(ほろ)の先に獅子頭を結び、そこで獅子舞を行います。幌の両端は子どもたちが持ち、獅子が動きやすいように上下に振って動かします。この振り付けに特別決められたものはありませんが、土橋町では「昇殿(しょうでん)の舞」を行います。

この舞は他町にはない独特な動きで、「前かぶり」と「後かぶり」の2人が幌の中に入り、「前かぶり」が右手に御幣(ごへい)、 左手に神楽鈴(かぐらすず)を持ち、「後かぶり」が獅子頭を扱い、 2人が呼吸を合わせながら舞います。

この獅子頭の大きな特徴として、巨大な口があります。三方向に裂けた口から見えるのは、頑丈な歯と牙で、獅子の生命線とも言えるでしょう。

また、大きな鼻先と見開いた目玉も迫力があり、遠くのものを見逃さないその目や、鋭い嗅覚をもつ鼻、 悪魔をも噛み砕いてしまう歯が獅子の特徴がはっきりと示されています。

なお、石岡のおまつりで登場する各町の獅子のその顔は赤く、伊勢大神楽の系統だと考えられています。

明治から現代へ

これまでのさまざまな要素が重なり、現在の常陸國總社宮例大祭、つまり石岡のおまつりの形が作られてきました。

民俗学者・柳田國男の言うように「新旧の儀式の色々の組合せが起り、マツリには最も大規 模なる祭礼を始めとして、大小幾つとなき階段を生ずることになり、一つの名を以て総括 するのも無理なほど、さまざまの行事が含まれることになった」のです。

(参考:前掲「日本の祭」)

その後、石岡のおまつりは、新年番制度が確立したあと、明治時代の終わりから昭和時代にかけて大きく発展し、「関東の大祭」と言われるようになりました。

明治時代から昭和時代にかけて、どのような歴史を辿ってきたのでしょうか?

重要な出来事を表で確認してきましょう。

年月

出来事

明治33年(1900)

常陸國總社宮が県社に昇格しました。

明治35年(1902)

新年番制度が確立されました。

明治44年(1911)6月

まず祭礼日が変更されました。

明治33年(1900) 県社昇格以来の陽暦9月9日 (それまでは陰暦9月9日)から10月9日に変更されました。

しかし、この10月9日への変更はわずか10年ほどで終了し、大正11年(1922)の金丸 町年番の際に元の9月9日に戻されました。

昭和16年(1941)12月

大東亜戦争 (太平洋戦争) が勃発したものの、このような非常時戦時体制下にあっても、例大祭は自粛自戒のスローガンのもと、 皇軍武運長久の相撲が祭礼行事として続けられました。

昭和21年(1946)

戦後の混乱の中で常陸國總社宮例大祭の山車・獅子の祭礼風流は復活しました。

昭和12 年(1937)以降取り止めとなっていた山車・獅子風流の復活が取り決められ、年番中町をはじめとする山車6台、獅子12台が祭りに登場しました。

昭和27年(1952)

「関東三大祭」 が冠され、 その文言は広く人口に知られるようになり、 常陸國總社宮例大祭=石岡のおまつりの代名詞として、全国に名を馳せていきました。

昭和55年(1980)

常陸國總社宮例大祭で一番伝統の古い奉納相撲は茨城県高校相撲選手権大会となりました。

「常陸國總社宮例大祭のしおり」によると、相撲に先だち土俵祭を行うとしており、 単なるインターハイ (高校総体) 相撲の県予選ではなく、伝統行事としての 奉納相撲の表象が強調されています。

このように、明治33年(1900)の県社に昇格して以来、常陸國總社宮例大祭は新旧さまざまな儀式・風流物が混ざった「見せる祭り」として注目を集めるようになりました。

そうした背景には 近代日本の資本主義形成期において石岡町商工業が発展したという背景もあり、またお祭りの財政的基盤は石岡商人層によって担われてきました。

その意味でいうと、常陸國總社宮例大祭は近世以来、300年以上ある伝統を継承しながらも、 全体を見ると20世紀の経済成長の所産と言うこともできるでしょう。

さらにいえば、 常陸國總社宮例大祭は、 商人層を中心とする近代石岡町民による不断の創造的営為の成果であると言えます。

昭和40年代(1960年半ば)以降、常陸國總社宮例大祭は石岡市観光協会主催の「石岡のおまつり」となりました。

さらに昭和50年代(1970年半ば)以降、かつて年番町とされなかった町の町民からすると、外から眺めるだけのお祭りであったのですが、こうした旧市街周辺の20町が獅子風流を参加させて、現在では35町が参加する大きな観光イベントとなりました。

こうして新たに祭礼に参加した20町のなかには、 石岡市域であっても府中平村に属していない地域も含まれています。

これは府中域の総鎮守であったという、常陸國總社宮の歴史背景を汲むと、特に驚くべきことではないと言えます。

むしろ、このようにかつての石岡であった府中平村に属していない地域もお祭りに参加することは、例大祭の歴史をはっきりと形にする結果となったとも言えるでしょう。

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