桃太郎に聖徳太子、日本武尊、山車の人形一覧
石岡のおまつりには、12台の豪華絢爛な山車が上部に2~2.5メートルほどの大きな山車人形乗せて町中を引かれて行きます。
山車人形は、江戸時代から明治時代にかけて人気のあった人物を人形師に注文し作成されたものがほとんどです。
ここでは、各町内の山車人形についてご紹介いたします。
目次
中町 日本武尊
石岡のおまつりを代表する山車人形といえば、石岡市の指定重要有形民俗文化財である中町の「日本武尊(やまとたけるのみこと)」です。幕末から明治にかけて活躍した人形師三代目原舟月が明治29年(1896)に制作したもので、平成17年に石岡市有形民俗文化財に指定されています。
日本武尊とは『古事記』『日本書紀』『風土記』などに伝えられる英雄伝説の主人公。記では倭建命と記す。景行天皇の第三皇子で、母は播磨稲日大郎姫とされ、幼名に小碓命、倭男具那王がある。年少にして勇武人にすぐれ、諸方の平定に派遣されて日本武尊の名を得るが、長途の征旅、漂泊の末に力尽きて倒れる悲劇的人物として描き出されている。
三代目原舟月は、弱冠10歳にして病床の二代目原舟月の跡を継ぎ日本を代表する人形職人となりました。栃木県内の山車人形を多く制作しており明治のはじめ頃には宇都宮市周辺に移り住み制作を行っていたと言われております。
日本武尊は、石岡の他にも三代目原舟月の作が複数あり、どの作も力強い目つきと、精巧につくられた手や足が魅力の人形です。
その他の三代目原舟月の山車人形
栃木市万町二丁目「日本武尊」
本庄市宮本町「日本武尊」
金丸町 弁財天
金丸町の山車人形も石岡市の指定重要有形民俗文化財に登録されており、最後の江戸人形師と呼ばれている古川長延の作です。江戸時代に日本橋本町外三町が所有していたもので、大正11年に先代の江戸型山車とともに金丸町が購入したものです。
弁財天は、ヒンドゥー教の女神であり、水に関わる神様です。七福神の1人としても知られており、財運上昇など多くのご利益を授かれると言われている。弁才天や弁天、弁財天は同一の神様。本来は弁才天と記していたが、弁天さまと略して呼ばれたり、弁財天と書かれることが増えた。これは、日本の神と習合され、弁財天のご利益が時代で変わってきていることを示している。
守横町 静御前
守横町(もりよこちょう)の山車人形は「静御前(しずかごぜん)」が形取られています。人形師である、米福人形店三代目米福が制作しました。
静御前とは、平安時代の終わりから鎌倉時代の初めまで白拍子(しらびょうし)として活躍した女性です。白拍子とは、平安時代の終わりにかけて生まれた舞(まい)の一つで、女性や子どもが歌を歌いながら舞うものです。その衣装は当時の男性用の白い衣服をまとい、頭には烏帽子(えぼし)を被り、そして腰には刀の鞘(さや)をつけるという男装で舞っていました。
源義経(みなもとのよしつね)の愛人「妾(めかけ)」でもあった静御前は、源平合戦の後、源義経と対立した源頼朝(みなもとのよりとも)の妻、北条政子に引き渡され鎌倉に送られてしまいました。その鎌倉でも白拍子を披露しましたが、歴史書「吾妻鏡(あづまかがみ)」にも絶賛されている様子が残されています。
守横町の山車人形の静御前は、彼女の白拍子を舞う姿が形取られています。その彼女の人生を物語るように、美しく凛とした力強い表情には、遠くから見ても圧巻されます。
富田町 楠木正成
富田町の山車人形は、鎌倉時代の終わりから南北朝時代にかけて活躍した武将、「楠木正成(くすのきまさしげ)」が形取られています。左手に弓を、右に矢を持ち、正面を遠く、そして真っ直ぐ見つめるその姿は、戦に優れていた楠正成の人生そのものを表しているかのようにも感じられます。
南朝の初代天皇・後醍醐天皇(ごたいごてんのう)に仕えた楠正成は、多くの戦で実績を残しました。その戦いの様子から戦術家、軍事思想家としても日本史上で長くに渡り評価を受け続けています。また、人生を終える間際まで、後醍醐天皇を裏切らなかったその忠誠心は、現代も語り継がれています。
人形の隣にある立て札には、菊水紋(きくすいもん)と呼ばれる家紋が施されています。この家紋は後醍醐天皇から、菊の家紋を授けられたものの、「天皇と同じ家紋は恐れ多い」として、半分から下を流れる水の形の模様に変えたと言われています。この菊水紋にも彼の忠義が反映されています。
青木町 神武天皇
青木町の山車人形は、日本の初代天皇である「神武天皇(じんむてんのう)」が形取られています。表情は凛とし力強く引き締まっており、弓矢や剣を携え、また左手に持つ弓の先には、「金鵄(きんし)」と呼ばれる金色のトビが止まっている様子が目を惹きます。
この金鵄は、神武天皇の日本建国のための戦いの際、弓の先に止まり光を放ったことで、敵軍の目がくらみ、神武天皇の勝利へ導いたとされています。こうした背景から、吉事や勝利の代名詞としても知られています。こうした吉事を表すかのように、金鵄も人形も、その佇まいはきらびやかで豪華で、一際目を惹きます。
神武天皇は、日本神話に登場する「天照大神(あまてらすおおみかみ)」の五世孫であり、日本国の創始者とされています。現在の宮崎県である「日向(ひゅうが)」から、現在の奈良県の辺りの「大和(やまと)」へ、さまざまな苦難を乗り越えながら東征(とうせい)をし、建国を果たしたと言います。その建国、つまり天皇即位は『日本書紀』に基づき紀元前660年とされていますが、史実については確認が困難とされています。
幸町 武甕槌命
幸町(さいわいちょう)の山車人形は、「武甕槌命(たけみかづちのみこと)」が形取られています。雷の神、そして剣の神でもある武甕槌命のその表情は鋭く、左手に金色に輝く剣を持ち、右手を顔にかざし、山車の上から鋭い眼差しで見つめています。
武甕槌命は、日本神話に登場する神で、伊弉冉尊(いざなみのみこと)が首を切り落とした時に血が飛び散り、その血が岩についたことで誕生したと言われています。武神としても知られている武甕槌命ですが、神武天皇(じんむてんのう)の東征(とうせい)をも助けたとされています。
雷の神、剣の神としての顔が知られる一方で、水の神という側面も兼ね備えています。
そもそも石岡のおまつりは、豊作を祈るためのものでした。そうした農業とも関係のある武甕槌命はおまつりの雰囲気を一層盛り上げる存在と言っても過言ではないでしょう。
国分町 仁徳天皇
国分町の山車人形は「仁徳天皇(にんとくてんのう)」が形取られています。衣装はきらびやかで豪華、目は伏せがちで下を見つめているようにも見えます。
仁徳天皇は4世紀〜5世紀頃に実在した第16代の天皇です。民衆に寄り添った姿勢で知られています。
高台に上がり辺りを見渡した時に民衆の家から煙が上がらない、つまりご飯を炊くことができないほど貧しいことを知り、課税や労役を一時的に止め、自らも倹約するなどし、国全体が豊かになるよう仕向けました。そうした業績から聖帝(ひじりのみかど)とも称えられています。
また、大阪府堺市にある世界最大の古墳「大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)」は、仁徳天皇の業績を称え、つくられました。
こうした背景もあり、仁徳天皇の人形が下を見ているように感じられるのは、民衆を見守っている様子かもしれない、と想像をめぐらすこともできます。このように、人形となった人物の歴史を思い浮かべながら見物するのも、面白さの一つと言えるでしょう。
若松町 八幡太郎
若松町の山車人形は、平安時代の武将「八幡太郎(はちまんたろう)」が形取られています。朱色の兜(かぶと)や鎧(よろい)を身につけ、弓矢を持ち、揺るがない表情で真っ直ぐ前を見つめる姿には圧倒されます。
八幡太郎は別名「源義家(みなもとのよしいえ)」と言います。後に鎌倉幕府を開いた「源頼朝(みなもとのよりとも)」や室町幕府を開いた「足利尊氏(あしかがたかうじ)」の祖先でもあります。
八幡太郎は現在の東日本の地域で、源氏の勢力を強めた最初の人物と言うことができます。現在の福島県から秋田県にまで渡る広範囲は「陸奥国(むつのくに)」と呼ばれる地域でした。そこを支配していた阿部氏を討ち源氏の名を広めたのです。
こうした戦いで、八幡太郎は見事な弓使いを見せたと言います。その弓を左手に持ち、山車の上にいるその存在感に、人々は魅了されます。
泉町 鍾馗
泉町の山車人形は、中国に伝わる神「鍾馗(しょうき)」が形取られています。黒色の衣装をまとい、右手には剣を持ち、赤い顔で正面を睨みつけるその様子には圧倒されます。
鍾馗は、魔除けや疫病除け、学問成就の神です。中国が起源ですが、日本でも平安時代末期からその名が広まりました。鍾馗の起源は、中国の「唐」の時代にあると言われています。唐の6代皇帝「玄宗(げんそう)」が病気にかかった際に見た夢に出てきた鬼を描き、それを邪気除けとしたことが始まりです。
そしてその鬼とは、当時の役人となるための試験に落ちてしまった「鍾馗」という実在した人物だったと言います。鍾馗は試験不合格を苦に自殺をしましたが、その後葬ってもらえたという恩に報いるために、玄宗の夢に出て、また病気をも治した、とのことです。
その風貌からも恐れを感じてしまいますが、魔除けや疫病除けなど、石岡のおまつりをも邪気から守ってくれているのでしょう。
香丸町 聖徳太子
形取られています。その衣装は金色と紫色が入り、笏(しゃく)を両手で持ち、静かに落ち着いた様子で、おまつりを見守っているようにも感じられます。
聖徳太子は若くして、「摂政(せっしょう)」という立場につき、第33代天皇「推古天皇(すいこてんのう)」の政治を助けました。「和を以って(もって)貴し(たっとし)と為す」と役人の心構えを定めたように、聡明さを持ちながらも、人の和を重んじていました。
またその他にも、病気が蔓延した時には民衆のための医療の仕組みを整えたり、当時の中国の王朝「隋」との関係を持ったりし、後世にも語り継がれる功績をつくりました。
こうした業績を残した聖徳太子ですが、一度に10人の話を聞くことができるという逸話も残っています。石岡のおまつりでは、山車の上から静かに、たくさんの見物客に寄り添っているのでしょう。
森木町 菅原道真
森木町の山車人形は、平安時代の貴族「菅原道真(すがわらのみちざね)」が形取られています。学者として、政治家として、漢詩人として、その多才な能力を活かし活躍した菅原道真は、紫を基調とした衣装をまとい、山車の上で凛とした佇まいを見せています。
菅原道真は、その才能を活かし出世し、第59代宇多天皇(うだてんのう)に重用され、その時代の政治を支える存在となりました。しかし、その活躍が周りの貴族の恨みを買うこととなり、結果的に左遷をされ人生を終えるという、波瀾万丈な人生を送りました。
菅原道真の死後、左遷をした貴族たちが不審死を遂げたことなどから、そうした祟りを鎮めるために日本各地に菅原道真を祀る神社がつくられました。
そして今では、「学問の神様」としても知られるようになり、また、石岡のおまつりでも人形として形取られています。
大小路町 桃太郎
大小路町(おおこうじちょう)の山車人形は、「桃太郎」が形取られています。おとぎ話「桃太郎」とは、桃から生まれた男の子が、鬼ヶ島に鬼退治に行く勧善懲悪の物語ですが、山車の上に佇む人形もその物語に出てくる桃太郎の力強さを表す、キリッとした表情をしています。また、赤を基調とした衣装に赤い髪飾り、そして振り上げた右手には日本の国旗が描かれた扇子を持ち、遠くからもその華やかさが一際目立ちます。
日本の有名なおとぎ話に出てくる「桃太郎」は、室町時代〜江戸時代頃までに口承文学としての起源があると言われています。
主人公・桃太郎の元となった人物は、第7代孝霊天皇(こうれいてんのう)の皇子・吉備津彦命(きびつひこのみこと)です。吉備津彦命が現在の岡山県南部の吉備地方に伝わる古代の鬼「温羅(うら)」を退治した伝説に基づき、物語「桃太郎」が作られたという説があります。
こうした勧善懲悪の物語と、その物語の内容を表すかのような力強い表情をした桃太郎の表情には、見物客を引き込む魅力があります。