石岡囃子の系譜と成り立ち

石岡囃子の成り立ちについては、一次資料が少なく、いまだ不明な点が多く残されています。
本記事では、地域の長老への聞き取りや、口伝で語り継がれてきた内容も含めて構成しています。そのため、史実と異なる点や、正式な記録に基づかない情報が含まれている可能性がありますことを、あらかじめご了承ください。
このページの制作にあたり、染谷囃子連の有志の方に取材及び、長老への聞き取りにご協力いただきました。ありがとうございました。
起源と伝播の背景
石岡囃子の起源については明確な資料は少ないものの、いくつかの伝承や口述によれば、江戸時代の祭礼囃子「葛西囃子」の系譜を引くものと考えられています。八王子や東京近郊のひょっとこやおかめを用いる囃子と共通する小太鼓のリズムなどが見られます。
この葛西囃子は、享保年間(1716〜36)に江戸葛飾領の香取明神の神主・能勢環が創案し、若者に広めたとされるもので、当初は「若囃子」あるいは「和歌囃子」と呼ばれました。
しかし後に馬鹿面をつけた踊りが加わり「馬鹿囃子」と呼ばれるようになったとも言われます。また、紀州和歌浦の漁師が大漁時に演じた和歌囃子が江戸に流入したものとも伝えられています。
宝暦年間(1751〜64)には、千住に遊郭ができ風紀が乱れたため、代官・伊奈半左衛門が青年に葛西囃子を習わせ、日枝神社・神田明神の祭礼に出演させました。
これらの祭礼は「天下祭り」とも呼ばれ、葛西囃子が江戸の代表的な芸能として定着し、関東各地へ伝播する契機となりました。
葛西囃子が関東一円に広がった背景には、出稼ぎや神楽の一座のように関東近郊を流し歩いていた芸能集団の存在があったとされます。彼らは各地の農村を巡りながら芸を披露し、地元の若者に囃子を教え、伝えていったと考えられています。
中でも、現在の土浦市荒川沖周辺にあたる「六斗二合半」と呼ばれる地域の出身者が、江戸で葛西囃子を習得し、常陸地方へ持ち帰ったという説があります。この囃子は農村地域を中心に急速に広がり、民間の神事や祭礼に取り入れられるようになりました。
この過程で登場するのが、後述するひょっとこの達人「泰輔」です。彼は出島村田伏(現・かすみがうら市)や志筑に実在した人物とされ、幼い頃から芸事に親しみ、六斗二合半で習得した囃子に改良を加え、石岡周辺に普及さた立役者の一人と考えられています。
このようにして葛西囃子の一種が霞ヶ浦水運を通じて恋瀬川流域の農村に伝えられ、石岡における染谷囃子、三村囃子、片野排禍ばやしへと発展していったと考えられます。
三大源流と地域性
石岡市には、以下の三つの流派が古くから存在しており、いずれも江戸時代には城が置かれていた地域に由来しているのではと考えられています。
- 染谷囃子
- 三村囃子
- 片野排禍ばやし
これらの囃子はそれぞれ地域の祇園祭で山車を出し、芸能を披露する文化を築いてきました。特に染谷・三村は石岡市内でも広く知られる存在であり、片野排禍ばやしは神社文献にも記録が残っており、県の無形文化財にも指定されています。
近世後期から昭和40年代初頭にかけて、山車には旧府中域の三村や染谷など周辺農村から囃子方と踊り手が参加していました。これらは霞ヶ浦水運の発展による江戸との人的・経済的交流の成果であり、町内の氏子衆と風流芸能の担い手とが分化していたことを示しています。
たとえば、昭和30年の中町「総社宮大祭決算報告」には、「囃子方3日間買金」「囃子方足袋・手拭・草履代」「囃子方3日間食事代」「囃子方送迎自動車代」「囃子方7人謝礼」などの項目が見られ、その丁重な待遇ぶりがうかがえます。
しかし昭和40年代以降、高度経済成長とともに社会階層の平準化が進み、周辺農村の担い手が高齢化。代わって町内の青年層による囃子連が結成され、現在では町内ごとに自前の囃子方を持つようになっています。
染谷囃子と志筑との関係
染谷囃子は、隣接するかすみがうら市志筑地区とのつながりが深く、古くは小学校も共有していたことから、文化的交流が盛んであったことがうかがえます。
明治時代からは志筑の須賀神社で山車が運行されており、昭和初期までは染谷と志筑に明確な囃子組織は存在せず、仲間内での祭り芸能として親しまれていました。大正時代のひょっとこのお面や太鼓、山車の写真などが残されており、実際の資料も存在しています。
三村囃子の広がり
三村囃子は、石岡市三村地区の須賀神社を中心に発展しました。石岡や柿岡、土浦などでも上演されていた記録があります。
隣接する西成井では「西成井煙火囃子連」が三村系の技法を継承し、現在も活動しています。また、三村囃子は石岡市内外に弟子筋を広げており、泰輔ばやしや菅谷ばやし(読み:すげのや、昭和55年 土浦市指定無形民俗文化財)、金丸囃子などに影響を与えています。
片野排禍ばやしと祈り
片野の八幡神社に奉納される囃子は、「排禍ばやし」と称され、今日まで伝統が引き継がれています。
この八幡神社は、戦国時代に小田氏治を滅ぼした太田三楽が、自らの氏神として建立したものと伝えられています。その由緒にちなみ、奉納される囃子には、災厄を祓い、五穀豊穣や地域の繁栄を願う意味が込められています。
こうした背景から、この囃子は単なる祭礼芸能ではなく、悪疫退散や家内安全を祈願する神事の一環として受け継がれてきたものであり、禍(わざわい)を排して繁栄を願う「排禍ばやし」という名称も、そうした祈りの心を象徴するものと考えられています。
泰輔ばやしとひょっとこの達人「泰輔」
「三村囃子」が石岡に広まる過程で欠かせない存在が「泰輔ばやし」です。昭和40年頃、高野隆一氏と篠塚和夫氏が旧・三村ばやしで修行し、解散後にその名を継承。「三村ばやし保存会」として活動を開始しましたが、昭和48年に三村地域での復活を機に「泰輔ばやし」と改名しました。
「泰輔ばやし」の名は、伝説的なひょっとこ踊りの名人「泰輔」に由来します。彼は葛西囃子を石岡地域に伝えたとされ、口伝では「志筑に実在した人物」や「出島村田伏の生まれ」など諸説伝えられている。
現在、泰輔ばやしとしての団体活動は行われていませんが、その流れをくむ「三村流泰輔」は中町や森木町などで今なお大切に受け継がれています。
石岡囃子の年表
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1716〜1736年
葛西囃子の創案
江戸の香取明神の神主・能勢環が「葛西囃子(若囃子・和歌囃子)」を創案。のちに「馬鹿囃子」とも呼ばれるようになる。
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1751〜1764年
天下祭りへの登場
日枝神社・神田明神の祭礼で葛西囃子が演奏され、関東一円に広まる契機となる。
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江戸末期〜明治期
石岡周辺への伝播
霞ヶ浦水運を通じて、恋瀬川流域に葛西囃子が伝わり、「三村囃子」「染谷囃子」「片野排禍ばやし」などが形成される。
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1896年(明治29年)
中町の日本武尊山車建造
祭礼風流として初めて中町が山車を建造。
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1955年(昭和30年)
囃子方の記録
中町の「総社宮大祭決算報告」に、囃子方への謝礼や待遇の記載あり。外部担い手が中心だった。
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昭和30年代前半
府中ばやし誕生
石岡初の町内囃子連「府中ばやし(現・国分囃子連)」が結成。染谷囃子に師事し、技術を継承。町内ごとに囃子連が結成され、各町が独自に囃子を持つ流れに
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1962年(昭和37年)
片野排禍ばやし 県指定文化財に
片野排禍ばやしが茨城県の無形民俗文化財に指定される。
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昭和40年頃
三村ばやし保存会の結成
高野隆一氏・篠塚和夫氏らが旧三村ばやしに弟子入りし、「三村ばやし保存会」を石岡市内で結成。
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1971年(昭和46年)
石岡囃子連合保存会 発足
市内の囃子団体を統合し、保存と技術継承を目的とした「石岡囃子連合保存会」が発足。
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1973年(昭和48年)
泰輔ばやしに改名
三村地域での囃子復活に伴い、石岡側の「三村ばやし保存会」が「泰輔ばやし」へと改名。
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1980年(昭和55年)
石岡囃子 県指定文化財に
石岡囃子が茨城県指定の無形民俗文化財として正式に登録される。
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平成以降
石岡囃子の継承
町内ごとの囃子連が切磋琢磨し今日まで、石岡囃子の伝統と技術を継承している。
石岡囃子の保存と今後
石岡市内では複数の囃子保存会が結成されており、石岡市外などでも乗演が続いています。囃子の技術は主に師弟制で継承され、笛や太鼓の流派も存在します。
中でも、岡太鼓(染谷流)と水場太鼓(三村流)の叩き方の違いは、各囃子の個性を示す重要な要素です。
現在では、石岡のおまつりでの山車上演のほか、地域行事や学校教育との連携も行われ、次世代への伝承が進められています。