金丸町の弁財天~江戸「天下祭」から時を越えた山車と山車人形~
石岡のおまつりを象徴するような、町内や山車、獅子はどこだろう?と考えたときに、ぱっと思いつくのが「土橋町の獅子」「中町の人形」「富田町のささら」そして「金丸町の山車と山車人形」ではないでしょうか?
今回は「金丸町の山車と山車人形」にフォーカスを当てたいと思います。
金丸町の山車人形といえば「弁財天」。弁財天は、七福神の一人で水の神様であり雨を降らせるとも言われており、石岡のおまつりが「雨祭り」とも言われる所以にもなっている人形です。
この山車が石岡・金丸町に渡ってきたのは大正11年(1922)のこと。関東大震災(大正12年・1923年)のわずか前年であり、翌年の震災によって東京に残されていた江戸型山車のほとんどが焼失してしまうことを思えば、まるで歴史の激流から逃れるように石岡へと渡ってきた一台の山車の物語は、単なる地方の祭礼史を超えた、江戸から近代へと続く日本文化史の縮図でもあると感じます。
目次
金丸町 鎌倉時代に遡る地名と町の歴史

「在庁名金丸」―地名の起源
石岡市街の中心を形成する金丸町の歴史は古く「金丸」という地名は、鎌倉時代後期にはすでに文献に登場しています。弘安2年(1279)の「作田惣勘文」(税所文書)には「在庁名金丸三丁五段」、嘉元4年(1306)の「田文」(安得虎子所収文書)には「在庁名金丸三丁五反」の記載が見られます。
「在庁名」という文言から、この地名は常陸国府の在庁官人――地方行政を担った官人たち――の仮名(かりな)、すなわち本名を隠してつけた名に由来することがうかがわれる。地名としての「金丸」は、少なくとも鎌倉時代後期まで遡ることが確認される由緒ある地名なのです。
佐竹氏の城下町形成と金丸町の成立
近世初頭、豊臣政権下で常陸一国を支配した佐竹氏は、古代・中世の国衙(こくが)所在地であり、当時の経済流通の要衝でもあった府中(現・石岡)の地に近世的城郭を造営するとともに、中町を中心とした計画的な町場形成を行った。金丸町もこの時、中町裏町の水戸街道出口に成立した町のひとつでした。
その後、近世後期以降には小川・鹿島街道沿いに新町が形成され、さらに近代に入り明治28年(1895)の石岡駅設置によって金丸新道が開通、町筋が大きく拡大していきました。江戸時代から明治・大正にかけて、金丸町は石岡の商業・文化の中心地として発展を続けた町といえます。
府中の祭礼史と金丸町
近世府中の祭り―祇園・愛宕の賑わい
近世の府中では、町の鎮守・八坂神社の祇園祭礼と愛宕祭礼が最も盛大な祭りでした。「矢口家文書」所収の明和年間(1764〜72)と推定される御用留断聞「御祭礼之次第」には「十一番人さらら・金丸」とあり、嘉永4年(1851)祇園祭礼について書かれた文書には「子供踊・金丸」、安政3年(1856)の御用留には「踊屋台・金丸町」との記録があります。
「人さら」「子供踊り」「踊屋台」と、出し物が一定していなかったことがわかります。
やがて、祇園祭礼と愛宕祭礼は、衰退し現在の常陸國總社宮例大祭に集約されていきます。その流れについては、こちらの記事を参考にしてみてください。
山車の登場 中町「日本武尊山車」の衝撃
これまでは、屋台などが中心だった祭礼ですが、明治になり山車が登場します。その先駆けは明治32年(1899)、中町が参加させた「日本武尊山車」でした。
これは三代目原舟月作と伝承される江戸型重層山車で、その威容は他町の人々に大きな刺激を与えました。
明治41年(1908)9月8日付「いはらき」新聞には各町の出し物が記録されており、当時の様子を鮮やかに伝えている。
「仲町の日本武尊、香丸町の鎮西八郎為朝、青木町の佐藤忠信、若松町の牡丹に蝶々、木の地町の弁慶五条の橋、金丸町の熊手に大おかめ等各美々しく飾り付けたる山車を曳き……」
金丸町の「熊手に大おかめ」と江戸型山車への渇望

この新聞記事からわかるように、当時の金丸町の出し物は「熊手に大おかめ」を飾り物とする山車でした。風流物としては華やかですが、当時の金丸町の方々はおそらく「中町が羨ましい、、」と思ったことでしょう。
祭礼行列のたびに前を巡行する中町の江戸型山車を目の当たりにするたびに、より豪壮な山車への渇望が金丸町の人々の胸に芽生えていったことは想像に難くないです。
江戸型山車の誕生と地方流出
江戸型山車誕生の時期
江戸型山車がいつ誕生したかは、祭礼番付という絵画史料から比較的正確に推定できます。これは全国の山車類型のなかでも稀有なことであり、京都祇園の山鉾を含めて成立時期が確定できる山車はほとんど存在しません。
現存する史料によれば、天保9年(1838)の「山王御祭礼番付」での山車は一本柱構造の笠鉾であり、嘉永7年(1854)の「山王御祭礼付祭番付」では三層構造の江戸型山車が多く登場して定着がうかがわれます。つまり江戸型山車は、天保末から弘化・嘉永期、すなわち1850年前後に誕生したと推定されます。
付祭への規制が生んだ山車の「内面化」
江戸型山車誕生の背景には、幕府による「付祭(つけまつり)」への規制も大きく関わっていました。山王・神田の祭礼絵巻をみると、各町の山車に付随して踊屋台・練物・曳物が行列しています。これが付祭です。
付祭については年々華美になっていったことから、享保・寛政・天保の改革期に幕府の規制対象となりました。その結果、それまで付祭において実現されていた風流感覚が山車自体に求められるようになり、江戸の山車風流は建築・錦繍・彫刻などの工芸美に向かうこととなりました。こうして人形を中心とする江戸型山車の華やかな造形美が磨き上げられていったのです。
天下祭の終焉
江戸型山車誕生からわずか10年余、文久2年(1862)の山王祭礼を最後に江戸城内巡行は絶え、「天下祭」は終焉を迎えました。維新変革期のなかで祭礼自体も中断され、明治新政府の神道政策によって山王権現は日枝神社、神田明神は神田神社と改称され、近代の新しい枠組みのなかで祭礼が行われることとなりました。
明治19年の暴風雨が転機となる
こうした状況下で、江戸・東京における江戸型山車は衰退の一途をたどりました。決定的な転機となったのが明治19年(1886)の暴風雨でした。
9月15日の神田祭礼の当日、朝からの暴風雨によって多くの山車が小屋ごと倒壊し怪我人が出るなど、山車人形に大きな被害をもたらしました。この事件以降、財政的に逼迫していた町会が山車を新調することは困難となり、保持していた町会でも売却せざるを得なくなっていきました。
さらに明治20年前後には東京の街に電線が張り巡らされていき、山車の曳行はますます困難となりました。こうして江戸・東京から山車が消えていき、多くの江戸型山車が関東周辺の地方小都市へと流れ出していったのです。
江戸型山車の流出先
こうして八王子・青梅・川越・熊谷・所沢・本庄・越生・佐原・成田・佐倉・栃木・高崎・桐生・渋川・藤沢、そして石岡へと、江戸型山車は関東各地に拡散していきました。
また東京では需要がなくなった山車職人の手によって、地方都市において新たな江戸型山車の製作も行われました。幕末期の江戸「天下祭」を彩る風流として誕生した江戸型山車は現在も、形態を変容させながら関東の諸都市に生き続けています。
弁財天山車と日本橋魚河岸の山車風流

天下祭における弁財天山車の歴史
現存する最古の祭礼番付である寛政4年(1792)「日吉山王御祭礼番付」(国立国会図書館蔵)には、すでに弁財天山車の記載があります。その後、最後の「天下祭」となる文久2年(1862)まで、山王祭礼第7番「本町四町・岩附町・本革屋町・金吹町」の出し物として継続されたことが確認されています。

また神田祭礼には文政8年(1825)から文久元年(1861)まで、第26番「新革屋町」の出し物としての記載があります。
弁財天とはどのような神か
弁財天はもともとインドのサラスヴァティという河をつかさどる女神に由来します。

水神・農業神として池や河のほとり、島に祀られ、また音楽の神であり弁舌才知を与えることから「弁才天」とも書きます。財宝利得をもたらすとして「弁財天」の字もあてられ、日本では神仏習合により市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)・吉祥天・稲荷などと習合して信仰されました。七福神の一柱としても知られる親しみ深い神です。
維新後の消息と魚河岸への移動

明治維新後、天下祭の終焉とともに弁財天山車の消息も一時不明となります。しかし明治17年(1884)、前代未聞の山車本数が出たという神田神社祭礼に、日本橋魚市場(魚河岸)本小田原町の出し物として再び姿を現しました。
日本橋魚市場の開設は慶長年間(1596〜1615)に遡りますが、江戸の繁栄とともに大きく発展し、本小田原町組・本船町組・本船町横店組・安針町組の4組が成立していました。もともとこれら魚市場を構成する諸町は、山王祭礼に山車風流を出していた縁がありました。
弁財天山車の旧来の所在地であった日本橋本町付近から魚河岸・本小田原町への移動の経緯は明確ではありませんが、この頃から弁財天山車は加茂人形山車とともに日本橋魚市場を代表する山車風流として定着していきます。
水神祭と東京における最後の活躍
魚河岸の弁財天山車の消息は、様々な祭礼・行事のなかに見出すことができます。
明治34年(1901)の日本橋魚市場水神祭には加茂人形山車とともに登場し、その様子は同年11月10日発行の「風俗画報」(第240号)が「魚市場水神宮の祭典」と題して詳しく報じました。
本小田原町は弁財天の花車、長浜町は加茂の花車……電線の多き為め、畳みてはまた組立つる山車の人形、目まぐるしきまで頻繁なりき
江戸時代に城門をくぐるために発案された可動式構造が、今度は電線をくぐるために活用されている様子が目に浮かぶようです。
その後も弁財天山車は活躍を続けました。
- 大正3年(1914) 東京大正博覧会に上野二本杉付近の山車展示場に出陳
- 大正4年(1915) 大正天皇御大典奉祝行事において日本橋付近で展示後、日本橋から皇居前にかけて巡行
- 大正9年(1920) 約20年ぶりの水神祭が行われ、東京における最後の弁財天山車巡行となりました(このとき牛曳きが禁じられたため二輪を三輪に改造して巡行)
この大正9年の水神祭には弁財天山車のほかに加茂人形山車・大蛸の曳物・浦島人形山車なども巡行しましたが、石岡へと移った弁財天山車を除き、これらはすべて大正12年(1923)の関東大震災によって焼失してしまいました。
大正11年(1922)金丸町への到来
購入の経緯
大正11年(1922)、金丸町の年番に際し、有志の尽力によって日本橋魚市場本小田原町からこの弁財天山車が購入されました。その翌年に関東大震災が起き、東京に残されていた江戸型山車が壊滅的打撃を受けることを思えば、この購入の決断がタイムリーだったといえます。
石岡における山車の姿
石岡に渡った山車は、總社宮例大祭の山車風流の様式に合わせるかたちで若干の改造が施されましたが、江戸型山車の本質的な特徴はそのまま保たれました。
- 人形(弁財天)を中心(依代)とする縦橋型の構成
- 繰出し式外枠のなかに内枠、その内枠のなかに人形が収まる可動式の重層構造
昭和52年(1977)に山車は新調されましたが、製作にあたっても従来の型が踏襲されています。安政5年(1858)の「山王御祭礼図」(天下祭錦絵)に見る弁財天山車の姿が、現在も常陸國總社宮例大祭の行列に再現されていると言っても過言ではありません。
山車人形の作者をめぐる謎
二人の名工
「弁財天」山車および人形の製作者については、いくつかの記録と伝承が残されております。「大正9年水神祭記録」には、「此の製作の年月不詳なるも加茂能人形の山車よりは尚ほ古しといふ、文久二年即ち今を距る六十年前斯道の名工三代目原舟月の手に依り大修理を加へたるものなり」と記されております。
また「廿世紀おまつり帖」には「古川長延作 後 原舟月改作」とあり、さらに「山車は江戸中期の作、弁財天人形は明治6年(1873)古川長延作」という伝承も伝わっております。
製作者札と異説

明治34年(1901)の日本橋魚市場水神祭、大正3年(1914)の東京大正博覧会、大正4年(1915)の御大典奉祝行事、大正9年(1920)の日本橋魚市場水神祭に出御した弁財天山車の正面には、「三代目 法橋原舟月作」という製作者札が掲げられておりました。
しかしこの札についても、「原舟月による補修以降に掲げられたものであり、もともとは古川長延の作である」とする説が存在するようです。
史料的に判断すると「三代目原舟月作」あるいは「作者未詳・原舟月補修」とするのが妥当と思われますが、伝承の世界では、どうしても古川長延の名が浮かび上がってくるようです。
一般に江戸型山車の場合、山車と山車人形の製作者は同一で、これこそが江戸型山車の特徴でもあったようです。ただし、弁財天山車がこの慣例に従うものであったかどうかは、明らかではありません。
古川長延

「江戸型山車のゆくえ」および「佐原の山車まつり」によると、古川長延は文政9年(1826)に江戸で生まれました。13歳のときに深川佐賀町の人形師・都梁斎仲秀英へ弟子入りし、10年の年季と1年の御礼奉公を経て独立いたします。初めは仲英真を名乗り、のちに泰精斎古川長延の作名で本郷湯島天神町に店を構えました。
没年は不明ですが、明治32年(1899)には佐原下宿の源頼義の大人形を手がけており、翌明治33年(1900)には『千代田日報』の取材に対し、自ら製作した山車人形について次のように答えています。
先ず佐柄木町の亥年に因んだ野猪を始め、白壁町の蛭子(これは親方が彫え掛けて途中で亡くなったので親方の名で私が彫えたもの)、通新石町の歳徳神、入谷町の静の男舞、上野町の経基、初音町三丁目の二柱の神、谷中上三崎の豊島左衛門、佐柄木町の神武天皇、阿部川町の諫鼓、赤坂田町四丁目五丁目の神武天皇、駒込肴町の正成、切通(増上寺裏)の弁天、田舎では三河島の中の稲田姫、同じく西の素戔嗚命、信州大門町の高砂、壬生の西王母、土浦の頼政に早太、下総佐原中宿の鍾馗、同じく若松町の桃太郎と雉子、同じく下宿の頼義、武州久喜の素戔嗚命など。
この長い列挙のなかに、日本橋本町あるいは魚河岸の弁(財)天の名は見当たりません。これは作者問題を考えるうえで、極めて示唆的な事実です。
三代目原舟月

一方、三代目原舟月に、前掲「江戸型山車のゆくえ」が次のように記しています。
・・・二代目(原舟月)には一男二女あって、そのうちの一男は、即ち天性の名人と称さ れた三代目原舟月となった。幼名徳太郎、長じて父の名を継ぎ金太郎を名乗った。 代目は晩年、中風を患い半身不随で十間店の店も人手に渡ってしまったが、死の枕辺 に徳太郎を呼んで十二支の彫り方、支那彫りの秘伝を事細かく伝えて目を閉じたとい うことである。江戸職人として誠に劇的ともいうべき最後であった。天保十五年八月 二十七日徳太郎一一歳の時であったということであるが、その後徳太郎が誰の下でど のような修業をしたかはあきらかでない。とにかく現在関東周辺に残存する三代目原舟月の作品は名品揃いである。特に繰出しの手法に独特なものがある。
同書にはまた、明治5年(1872)に「法橋」を名乗ったことが記されており、山車製造家・田中秋作談として「法橋原舟月 日本橋岩附町に住む。木太の豪壮な作風、普段は小さな節句人形の製作者」と紹介されております。
年代から見た作者問題
現時点では、「大正9年水神祭記録」や明治末から大正期の弁財天山車に付けられた製作者札から判断し、「金丸弁財天山車」の製作者は未詳、のちに三代目原舟月の補修にかかるもの、とするのが妥当と考えられます。
なお現存する弁財天人形の出来栄えからすると、幕末期江戸の一流人形師――すなわち仲秀英、古川長延、三代目原舟月レベルの作と評されていますが、三代目原舟月の作風とは異なるとも言われています。それこそが、古川長延の名が作者としてクローズアップされる所以です。
三代目原舟月作の消失説
昭和63年に京橋図書館より発行の「郷土室だより」埋もれた文化財 安藤菊二著によれば、「魚がし会」の所有する加茂能人形山車は、文久二年に三代目原舟月が大改修を終え山車は大正年間まで保存されてきたが、惜しくも関東大震災でもう一台あった「魚河岸の弁財天山車とともに消失してしまった」と記されています。

左の写真は昭和28年(1953)に石岡で撮影された弁財天山車で右は、大正3年(1914)の東京大正博覧会での写真です。この二つ山車は、写真だけを見れば全くの別の山車だと見るのが自然のように感じます。

人形だけで見た場合では、左手に持っている玉の位置が、全く違うように見えます。
ここからは、筆者の類推になりますが、「郷土室だより」埋もれた文化財 安藤菊二著を支持するのであれば、原舟月作の弁財天山車は、関東大震災により消失しており、石岡に売却された山車は、また別の古川長延作の弁財天山車だったのではないでしょうか?
現在、金丸町は古川長延作と伝えられる弁財天と、米福作の弁財天を所有しています。江戸時代でもこのように一つの町会で2つの人形を所有していることは、珍しくなかったのではないでしょうか。
おわりに 弁財天が見つめた歴史
将軍家の上覧を受けた江戸の天下祭から、明治維新の激動、関東大震災前夜の東京、そして常陸の地・石岡への旅立ち。「金丸弁財天山車」が歩んだ道のりは、そのまま近世から近代へと続く日本の歴史の縮図です。
石岡に来てからの50数年間、この山車は戦争から高度成長に至る激動の時代を、そこに生きる石岡市民の喜びや悲しみとともに静かに見つめてきました。その目は、かつて幕府崩壊から明治新政府への移行、江戸から東京への変貌を見た目と同じものです。
現在の「金丸弁財天山車」は昭和52年(1977)に新調されたものですが、その形態は江戸「天下祭」の山車風流の型を忠実に受け継いでいます。
歴史の動態を自ら語ることなく、この山車はこれからも金丸町の華として、また石岡市民が共有する歴史意識の表徴として、常陸國總社宮例大祭を彩り続けていくにちがいありません。

